転載元: https://swallow.5ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1644391598/
私は何も考えていなかったように思える。それ以上に「自らの監督としての能力のなさ」を露呈してしまったのだと感じた。
またシーズンの成績がふるわなく、その責任をとって自ら「辞める」と言い出すのもこれも致し方ない。
だが、「辞める」ことをキャンプインの前日に口に出してしまうのは、あまりにも稚拙すぎた。自身の発言が周囲にどれだけ影響を与えるのか、そこまで思いを致したとは到底思えないし、実際には矢野の家族と井上一樹ヘッドコーチには相談したと言う。けれども『男はつらいよ』の寅さんではないが、「それを言っちゃあ、おしまいよ」という禁じ手を使ってしまった感は否
問題は「矢野監督の下で働くコーチたち」である。 コーチの中には当然、矢野監督になったことで縦じまのユニフォームを着た者もいるだろうし、矢野監督だからこそ今日までコーチでいられた者もいる。そうした人物が本当に指導者としての能力と適性があるかどうかはさておき、彼らが「矢野監督が辞めることで、来年も阪神のコーチでいられる可能性が低くなった」ことはまぎれもない事実である。
本来、監督自らコーチとして引っ張ってきた人材ならば、一蓮托生であることが多い。だからこそ「この監督のために1年間、必死になって選手を指導して、一人でも多く一軍で活躍する人材を供給する」のがコーチの務めだ。
結果、シーズンが終わって優勝するのがベストだが、仮にも成績不振で監督が辞めてしまって自分たちも辞めることになってしまったらそれはそれで仕方がないと覚悟を決められる。全力で取り組んだ結果、思うような成果を残せなかったとしたら、指導力不足だったと自身の至らなかった点を省みて、次のステージへ進むことができるからだ。
ところが肝心の監督がキャンプイン前日にシーズン終了後の退陣を早々に宣言してしまった。こうなると話は大きく変わってくる。「この監督のために……」という気概を持てないことだって大いにあり得る。
それに、シーズンが終われば自らもユニフォームを脱ぐ可能性が高くなれば、選手に対する指導もおざなりになってしまうことも十分考えられる。
それに、シーズンが終われば自らもユニフォームを脱ぐ可能性が高くなれば、選手に対する指導もおざなりになってしまうことも十分考えられる。
それだけではない。選手の立場からすれば、「今年1年、この監督やコーチたちと一緒に戦っていきたい」と考えていたところ、一軍を指揮する監督から突然、「今年限りで辞める」と言われたら、間違いなく戸惑う。
そのうえ目の前で指導しているコーチが全員いなくなってしまう可能性が高ければ、コーチの言うことを聞かなくなる選手だって出てくるかもしれない。
シーズンに入ればチームの成績もいいときもあれば悪いときもある。いいときはともかく、悪いときに監督を支えるのがコーチの務めであるが、今年で辞めると決まっている監督にどれだけ忠誠心を働かせられるのだろうか。この点は大いに疑問を抱かざるを得ない。
さらにもう1つ懸念しているのが、「矢野監督のベンチでの立ち居振る舞い」である。
矢野監督は退任表明をした際、「優勝するためには、『オレたちの野球』を貫く」と宣言した。
つまり、選手を下の名前で呼んでみたり、「矢野ガッツ」と呼ばれるガッツポーズを見せて選手を鼓舞する姿を今年も見せるつもりのようだが、いい加減こうした振る舞いは「子どもじみた行為」であることに気がつくべきだ。
昔の人、とくに60代以上の人たちからすると、「下の名前は親がつけたもの」であり、親だけが呼べる特権のようなものと考えている人も多い。もちろん私の現役の頃は監督やコーチからは苗字で呼ばれていたし、それが当たり前だと思っていた。
けれども今の時代は違う。監督やコーチが選手のことを下の名前で呼ぶことが当たり前のようになっている。このことは阪神も例外ではなく、矢野監督は選手のことをニックネームで呼ぶのは当然のことだと考えているようだし、他の球団でもしばしば見られる光景である。
たしかに選手同士や先輩と後輩の間で、下の名前やニックネームで呼び合うのはいい。法政大学時代、1学年上の田淵幸一さんや山本浩二さん、明治大学にいた星野仙一さんらは互いを下の名前で呼び合っていたし、田淵さんや山本さんから私は「エモ」と呼ばれていた。私が阪神に移籍した後、後輩の掛布雅之に対しては「カケ」と呼んでいたし、他の選手たち同士でもそれぞれのニックネームで呼び合うこともたびたびあった。
指導者と選手は一線を引いた関係であるべき
たしかに選手に鉄拳制裁を加えるといった暴力行為は今の時代はやってはいけないし、今の時代にそれを押し通すような指導者は退場してもらわなければならない。
選手のことを苗字で呼ぶコーチであっても、その人に裏付けされた理論や確かな指導力があれば選手は自然と慕ってくるはずだからだ。 私は何でもかんでも今の時流に合わせたやり方をよしとする風潮には違和感を覚える。とくに野球界は「指導者と選手は一線を引いた関係であるべきだ」と考えている。
中田翔の暴力事件を防げなかった栗山監督の責任
昨年8月、チーム内で後輩選手への暴力事件が発覚した日本ハムの中田翔の問題が最たる例だが、現場を預かる栗山英樹監督は普段から選手のことを下の名前で呼んでいた。 中田についても、グラウンド内では下の名前の「翔」と呼んでいたが、そんなことに気を遣わずに普段から栗山監督、もしくはコーチが目を光らせて中田のことを厳しく注意していれば、このような事態までにはならなかったはずだ。
矢野監督に対して最後に指摘したいのが、「ベンチ内でのガッツポーズしている姿」である。
一昨年の2月、野村克也さんが亡くなられたときに、矢野監督は、「選手時代にたいへんお世話になった。
野村野球を受け継いでいきたい」などと発言していたが、野村さんは監督時代、どんなに勝っていようが負けていようが、あるいはどんなに選手がヒットを打とうがベンチ内でガッツポーズをすることなんてあり得なかった。 私が南海でプレーしていたとき、当時プレイングマネージャーだった野村さんは、ベンチ内でこんなことをよく話していた。
つまり、味方の誰が打とうが、あるいはピッチャーがどれだけ抑えようが、一喜一憂している暇はないというわけだ。
矢野監督が感情を露にするのは、自分に自信がない証拠
けれども矢野監督は違う。選手の一投一打に一喜一憂し、感情を露にする。日頃のインタビューでは、「監督は一喜一憂するものではない」などと言っているが、選手がヒットを打てばガッツポーズを繰り出し、劣勢に追い詰められたときにはどんよりとした顔をする。
感情を露にするのは、自分に自信がない証拠である。本来であれば監督になる前に何らかの形でメンタル面をコントロールするためのトレーニングを受けておかなければならないはずだが、矢野監督はそうしたことをこれまでにもやっていたようには見えない。
その代わり、引退してからは阪神のおひざ元である朝日放送でゴルフ番組を持っていて、そこで露骨なまでに「明るい矢野さん」というキャラクターを前面に出すことをしていた。
その代わり、引退してからは阪神のおひざ元である朝日放送でゴルフ番組を持っていて、そこで露骨なまでに「明るい矢野さん」というキャラクターを前面に出すことをしていた。 本来であればそんな性格ではないはずだが、テレビで「明るい矢野さん」を演出することで「視聴者ウケがいい」という、テレビ業界特有のルールを身につけてしまったがために、それを阪神のユニフォームを着て披露しているに過ぎないように見えるのだ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/852949f86c4e800407ce194ec50cbb70582d9eff?page=5
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Source: なんじぇいスタジアム@なんJまとめ